読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

シン・ゴジラ感想メモ/核心部分注意

f:id:kbysmsy:20160731170434j:plain

深夜3時のTOHOシネマズ新宿

 

ネタバレまみれにつき要注意です。

 

シンプルだった初代ゴジラから、煩雑化してしまった設定を一度リセットし、新劇場版ヱヴァと同じく庵野秀明の手によってリビルドされたゴジラ

 

庵野映像だという感想が多かったけど、今回は正攻法で作られていて、キューティーハニーラブ&ポップ式日のような実験的な要素やアート性は息を潜め、立派な大作日本映画というカットもある。が、これまでの実写作品で使用していたDVカメラの代わりに iPhone6sのカメラをテクニカルに多用していたりしてやはりあの庵野作品だと安心してみることができます。特に庵野節が炸裂しまくっている、斬新的な臨場感のある緻密に計算されたアングル・カットが断続的に畳み掛ける120分は最高に気持ちが良かったです。それらは結果として全く新しい解釈の新機軸ゴジラ映画になっています。

 

特撮博物館で上映され、ヱヴァQでは同時上映された巨神兵東京に現る、あれは今になってみればパイロットフィルム予告編ということになるんだと思う。

冒頭では巨神兵東京に現るのような風味も感じつつ、ゴジラの初上陸時のビジュアルの衝撃からさらに先へ行く。

主題として、現代日本にゴジラが現れたらどうなるか?というファンタジー要素はゴジラ以外皆無なシュミレーション映画だが、庵野秀明原案、前田真宏デザインの使徒然としたギミックや挙動のゴジラが同時に現代日本に使徒が現れたらどうなるか?も兼ね備えているような、まさに庵野作品、実質エヴァみたいなかんじで、実写版エヴァンゲリオンも同時に成し遂げてしまったんじゃないかとさえ思います。

(たぶん、群衆デモのシーンで、ゴジラは使徒です!みたいなことを叫んでいたはずだと思う。)

 

そして一つ、確かに当初嫌な予感としてあったのが、ついに庵野秀明が政治的思想を出してきてしまうのではないかという部分だったけど、いい意味でも悪い意味でもその辺はぼかしている感じで、監督の政治的思想はほとんど皆無だったと思う。

Twitterでは、この映画をプロパガンダと言ってる人”がいる”というツイートを時々見かけるけど、実際にエゴサしてもあるっちゃあるけど極少数なので、いちいちそれに突っかかってる人もどうかと思う。

 

だが、 3.11を彷彿とさせるシーンはもはやテーマといってもいいくらいに全体に蔓延していて、ゴジラという虚構の天災が現実の自然災害とリンクし、本当に現実のものと錯覚してしまうくらいの恐怖感だった。

 

なにはともあれ、今迄自分は実写庵野作品では式日が一番好きな作品だったが、それを楽々凌駕ほどの最高傑作でした。

 

ゴジラが無限増殖を繰り返すこのままじゃやべえ、みたいなシーンがあったけど、あれってエヴァQみたいにラストシーンにあるインフィニティみたいな巨神兵っぽいやつが大量に増殖するってこと?

それともインフィニティだからラストシーンは博士が人から作り出した物を意味してるのか、または続編があるということなのか、巨神兵東京に現ると繋がっているのか、シンエヴァと繋げる気なのかはわからないが、意味深だった。

俺が理解してないだけかもしれないけど。

その辺は誰かの推察的なのをを楽しみに待ってます。 

トピック「シン・ゴジラ」について

國分功一郎著・暇と退屈の倫理学の批判的解体

私は普段あまり哲学といったものには全く馴染みがなく素人知識しかないが、今回取り上げる暇と退屈の倫理学という哲学の本はやさしい文体で書かれつつも、哲学の名著などを多数引用しつつ、この暇と退屈というテーマを論じるという、哲学の入門としても解りやすく、尚且つ内容も歯ごたえがあり、素人感覚でも非常に面白い本だった。今回はあえてハイデッガーについての一部の解釈と本書の一つの結論に疑問が湧き、納得いかなかった箇所を批判的に論じてみてはいるが、何度も言うように哲学に関しては全くの素人であるため、その専門知識の疎さと読解力の欠如による的外れな指摘であるかもしれない。本書で哲学の名著などを引用し批判的に論理展開しているのなんかを参考にそれを実践する形で書いていきたいと思う。

まずはこの本の要約から始めたい。

冒頭は西田正規著、定住革命を参考に人の退屈の起源について語られる。人類はその歴史の大半の間遊動生活を行っていたが、気候変動などの理由によって定住を「強いられる」ことになり、結果遊動生活で得られていた人類の優れた探索能力の発揮は有り余ることとなった(=退屈)。そしてその探索能力は定住がはじまって一万年で一気に遂げた文明発達に生かされたというものである。

そして次に、暇と退屈の定義が分けられる。

暇の定義としては、暇とは何もする必要のない時間自体の客観的条件に関わり、退屈とは人の感情、気分であり主観的な状態と定義される。その上でハイデッガー著「形而上学の根本諸概念」から退屈について論じられる。そこで退屈は段階分けされ、まず退屈の第一形式として、なにかによって退屈されること、具体的には電車の到着を待っているとき、木の数を数えたり、地面に絵をかいたり、現代的に言えばiPhoneでツイッターを見たりして気晴らしを求めるが、その時人は電車が来ず待つことによって時間に引き止められるという退屈状態にあると述べられる。そしてその時人は自己を失っている空虚放置という状態にあるという。続いて退屈の第二形式をハイデッガーは「何かに際して退屈すること」と述べ、その具体例がおそらくハイデッガーの実体験のようなものから語られる。それによれば「人はパーティーに参加する。食事は美味しくいい音楽も流れ、談笑も弾む。しかしこのパーティーが終わった後、このパーティーに際して、ふと退屈していたのだと気づく」とある。これはあまりピンとこないという人もいるだろうが、私のように引きこもり気質のある人なら良く分かる感覚ではないだろうか。この感覚を文章化できるこのハイデッガーとかいう哲人も恐らく相当な引きこもり気質だったのだろう。(この第二形式の退屈自体は個人差こそあれ万人共通のものである)つまり、この時人はパーティーに際して付和雷同的であり、自分の中に空虚が育成されてくるために退屈に陥ったのだと述べられる。そして最後に退屈の第三形式として挙げられるのが「なんとなく退屈だ」というありふれた漠然なもので、ハイデッガーはこれをすべてに興味を失っている状態「余すことなき全くの広域」と表現し、この時人は退屈に耳を傾けることを強制され全面的な空虚の中にいる状態であるという。しかしここでハイデッガーはこの第三形式の退屈にこそ、ゼロの状態であるからこそゼロを突破する可能性があると述べている。つまり、空虚に置かれることで人は現存在(ハイデッガーがよく使う表現で自己の意)の先端と向き合っているということである。そしてそこからハイデッガーはこの可能性を実現するには「決断することだ」と本書で引用されている文の限りでは抽象的すぎて何を言っているんだかよくわからない結論付けをしたのである。その結論に対してこの著者の解釈は批判的に論理展開をして、退屈の第三形式から可能性を選び抜き決断することは決断の奴隷になり第一形式の退屈に戻るだけのことであると論じている。

そして、最終的に我々は教養を身に着けることで楽しむことの訓練を行い退屈の第二形式を生きるべきだと結論を出す。退屈の第二形式であるパーティーを楽しめなかったのはパーティーに際して食事や音楽を楽しむ訓練を行っていなかったからだと述べ、ようは著者は食事や音楽に関してハイデッガーは教養がないとかいう酷い勝手な決めつけをしたのである。

しかし果たしてハイデッガーの言う自分の可能性と向き合い決断するとはそういうことなのだろうか?

退屈の三形式には共通しているものがあった。空虚放置という状態である。この空虚放置を簡単な言葉で言い換え、自己喪失という意味で考えると、第一形式の退屈では電車が来ないことで自分のやりたい行動ができず、自己喪失から退屈に陥っていた。そして先ほどの定住革命の説から考えると、絵を描いたり、木の数を数えたり、iPhoneでツイートをするのは有り余る自己の能力の探索や自己表現をして一時的に自己喪失を解消しているのだと考えられ、そしてこれらは定住革命の構図とも一致するのだ。つまり人は自己喪失(=空虚放置)という退屈を紛らわせるために自己表現のような形の自分の能力の発揮を行っているのではないだろうか。著者は退屈の第二形式においてハイデッガーがパーティーを楽しめなかったのは楽しむ訓練をしていなかったからだとかいう勝手な決めつけを展開したが、ハイデッガーはしっかり文章中にパーティーの退屈について周囲に付和雷同的で自分の中に空虚が育成される、つまり周囲の人間に気を使い本来の自分を抑制している状態の中で退屈を感じたと説明していた。ここから私の反論として、人は訓練によって第二形式の退屈を楽しむしかないというのは間違いで、パーティーを楽しむという観点で言えば、気を使い自己喪失に陥るパーティーに参加するのではなく、気を使ったり自己抑制をする必要のない仲間と飲みに行ってその談笑の中で気兼ねなく自己表現を行うことで退屈から逃れることこそ人のあるべき状態ではないだろうか。いくら教養があったところでそれを披露共有できなければ空虚は肥えていくばかりになってしまうだろう。そしてこれはハイデッガーの結論「決断することだ」にこそ日々の退屈から逃れられる答えを教えてくれているのではないだろうか。著者はなぜか揚げ足取り的に空虚の中で自分の可能性と向き合い決断することを第一形式の退屈へ戻り日々の奴隷となることだと結論付けたが、ここまでの解釈と照らし合わせれば、空虚の中で自分の可能性と向き合い決断することということの意味は明白である。この向き合う自分の可能性とは文字通りの意味であり、ハイデッガーの述べる決断とは決断の奴隷になるようなことではなく、自分の可能性に基づいた自己を発揮できる仕事や友人や趣味を発見しそれらとともに生きろというような単純なことなのではないだろうか。

 

宮崎駿引退後のスタジオジブリの行方

まだ噂段階ではありますが、宮崎駿引退を発端とし、スタジオジブリは思い出のマーニー後社員を解散して企画が立ち上がった場合にアニメーターなどを募る体制になるかもしれないとのことです。

鈴木敏夫さんのラジオなどでもそんなことが語られていました。

 

その中で語られた原因といったらなんだかネガティブな感じですが、その理由として、

 

1.お金がかかりすぎる

宮崎駿さんの映画を1本制作するのに約50億円かかるそうです。

また、高畑勲かぐや姫風立ちぬを合わせた制作費は100億円にも昇るということでした。

そのような状態になってしまったスタジオジブリの体制を続けることは難しいというのが理由の一つのようです。

(今回マーニーの制作期間は両監督と比べかなり短くできたらしいですが制作費はどうなのか。)

 

2.中心的存在になる監督がいない

鈴木敏夫によればジブリは才能ある監督を中心的にやりたいらしく、宮崎駿引退後その後釜となる中心的存在がいないということを述べていましたが、思い出のマーニーの完成度によって米林監督はどうなのか、また、他に監督がでてくればまたすぐ企画を立てるかも...のようなこともほのめかしていました。

また、そんな監督が次でてきたとしてもそのパートナーは自分ではないとも。

 

このようにスタジオジブリは大きな転換期にあるようです。

 

ここから先は勝手な願望も混ざっていますが、現実的にもこの状況でジブリの未来として明るいかつ面白いのは庵野秀明川上量生体制ではないでしょうか。

 

スタジオジブリ内は宮崎駿で時代が止まっています。

宮崎駿は今後の日本で恐らく出てこないくらいの天才で、一つの時代を築き、完成されているのでその畑での監督は正直なところそこから進歩がありません。

つまり、宮崎駿アニメを観るのは宮崎駿作品でいいよなあ、と思うのです。

 

ところが庵野秀明監督はナウシカで制作の基礎的なことなどを学んだ後、ジブリからは離れながらも師宮崎駿鈴木敏夫とは付かず離れず個人的な関係を続け、火垂るの墓に参加したりクシャナ戦記を作らせろだのほざいたり、また当時スタジオジブリガイナックスは同じ東小金井駅最寄りで互いに目と鼻の先にあることもあり、交流は頻繁にあったようです。(一時期エヴァンゲリオンの制作委託を一話で打ち切られたことが原因かはわかりませんが、そのへんの時期に仲違いっぽい期間があったこともありますが)

そのためジブリに染まらず、自身の特撮や個性的な映画などの特殊なルーツと宮崎駿的なパーツ(原作ナウシカ濃度高め)が複合して進化したものが庵野監督の作品では観ることができます。

つまり、日本で宮崎駿の影響を受けているアニメ監督は数知れませんが、一番良い位置で師事し、宮崎駿的なDNAを一番上手く活かせている監督は庵野秀明だけだと思うのです。

それが自分には庵野秀明宮崎駿の後継者たる存在だと思える理由の1つです。

また、庵野監督が学生時代から持つ演出能力やアニメーターとしての技巧、映画制作の理論は天才的です。

そういったこともあり今では名実共に宮崎駿に匹敵する知名度のある監督なのです。

 

そして極めつけ、明らかに風立ちぬは俺の後釜は庵野!的内容でした。

その風立ちぬの作中で「人生の創造的持ち時間は10年だ、君の10年を力を尽くして生きなさい」みたいなセリフがでてきますが、2013年2月号の文藝春秋の記事「宮崎駿ヱヴァンゲリヲン」の中で鈴木敏夫が今後10年は庵野の時代だ、という発言なんかもしています。

少し大げさに、この文脈から読み取れることがあるとするならば、宮崎駿の次世代を担うのは庵野秀明なのだというジブリの公式表明と受け取ることもできます。

 

そんな庵野監督が演出するナウシカはもはや諦めていましたが、最近になってその辺が覆って本当にあるのか、いつなのかという感じになっています。

児童文学にこだわる必要もないと思うし、これからジブリという枠で何かやってほしいと思いますね。

 

そこになぜ川上量生さんなのかと言うと、この人はかなり特殊な人で説明し辛く、熱風に掲載されている秀逸な連載なんかを読んでみるとわかるんですが、発想力が優れていたりSF方面を嗜んでたりしてカラー軍団との相性も良さそうだし、なんか面白いことやってくれそうな人なのです。

 

途中ジブリ内は宮崎駿で時代が止まっていると述べましたが、宮崎駿の作ったジブリの伝統として考えるととても重要な文化です。

なので、庵野監督の知名度と能力でなんとかやって、ジブリの権威を保持し、能力ある人はジブリに縛り付けて置いて、伝統を護って欲しいというのが個人的な願望です。

 

あとついでに鶴巻監督や摩砂雪監督をジブリ所属にしてしまおう。

樋口慎嗣はスタジオカジノにぶち込んでしまおう。

それで金はなんとかなるだろう。

 まあ、普通にカラーは宮崎駿二馬力みたいな事務所とかにしちゃえばいいんじゃないかな。

 結論に不謹慎なことを書きますが、宮崎さん亡き後、遺品の眼鏡をかけた庵野秀明とか見てみたいわという話でした。

 

最後に鈴木敏夫さんはラジオで宮崎駿は長編は引退するらしいが他にやりたいことがあるらしいのでまだまだ付き合わなくてはならなくなったと話していました。

風立ちぬのBDDVDの販促雑誌によれば、ジョンラセターと宮崎駿のなんらかの仕事の企画があり、2人が今、意見を出し合っているそうです。

これもすごいことですね。

 

これらが実現すればジブリはこれから先、今より面白いことになるんじゃないでしょうか。

風立ちぬのBDをかりてきた

今日はBD、DVDの風立ちぬ発売日です、早速借りて観ました。

以下感想

 

風立ちぬは企画段階から鈴木敏夫宮崎駿の次回作は自伝的映画になると発言していることからもそういった映画をプロデューサーとして作らせようとしたようです。

鈴木敏夫曰く反戦でありながら戦闘機好きの自分に対する矛盾というよくわからないテーマなのはさておき、実際に作品中にも矛盾という言葉が頻発してますから、そこはかなり意識していたんだと思われます。

 

この映画の主人公二郎は日本が戦争だとかで忙しない最中に軽井沢の高そうなホテルで優雅な生活をしているようなブルジョワ階級の人物です。

今まで宮崎映画を観てきて、まずこの残酷な?立場の主人公に少しビビりました。

実際に宮崎監督が語るエピソードとして、戦中は家業が戦闘機の製造だったから裕福だったことや車で街から逃げるとき連れて行ってくれと泣きつかれた親子を置いていったというようなことをときどき話します。

このへんから監督との実体験との結びつきが伺えます。

 

そして夢の世界で主人公はカプローニに「ピラミッドのある世界とない世界どちらを望むか?」と尋ねられますが、その場で主人公は明確には答えませんでした。

 

また、こんなシーンもあります。

店で主人公はシベリアというカステラで羊羹を包んだサンドイッチのような見た目の菓子を買いますが、その店の横でスーツを着た主人公とは違い、ボロの服を着た少女が子守をして道端に立っています(火垂るの墓の兄妹の感じ)

その子に主人公はシベリアを差し出すのですが嫌悪の表情をされ逃げられてしまいます。

そのあと帰宅した自室で同僚の本庄にこのことを話すと「それは偽善だ」と言われそして主人公二郎は最初「違う!」と否定をしますが続いて「そうかもしれない」と自分で気付き動揺します。

ピラミッドの下層への感情を偽善かもれないと言ってしまうのです。

 

こんなように風立ちぬ宮崎駿の自伝や私小説などの要素を持っている映画なのだと思いました。

 

しかし風立ちぬには無意識か意図的かはわかりませんが、確実に影響を受けた作品があります。

2000年の映画「式日」(庵野秀明監督・スタジオカジノ作品)です。

スタジオカジノで庵野秀明に撮らせた式日を評価した鈴木敏夫がそろそろマジで引退しそうな宮崎駿に同じことをさせたくなって猛反対されながらもプッシュして生まれたのが風立ちぬなのではないかと思います。

表向きのストーリーに自伝をぶっかけるなどの式日と共通点が多々見られるからです。

そして挙句の果てに主人公の声優が庵野秀明という発表を聞いたときはテレビの前で笑いました。

監督が主演というのも式日と同じ構図だからです。

スタッフロールに役職が付くとしたなら、原案・主演 庵野秀明でもいいのではってレベル。

 

 

(^ν^)...でも演技力は岩井俊二に惨敗してるよね!

 

それと、風立ちぬには音楽が少なかったり、映画の内容だったりが、全体的に平坦で退屈な現実を演出しているように感じました。

そういった今までになかった内容から宮崎駿の中にある子供向けでない映画の定義って、

現実的な残酷さのない夢とか救いとか面白い世界の物語のことなのだったのかなと映画を観ていて感じました。

これが大人向けってやつか・・・

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

最後にこれは勝手な妄想だけど、直接的な死の描写ないし菜穂子は最後自殺しているってストーリーを自分の中で作ってます

美しいままの自分をーっていうセリフがあるけどこれは自殺の美学ですよね。

そしてエンディングにひこうき雲が流れるっていう(笑)

そういう話が好きってわけじゃないけど、これはなかなかいいまとまりじゃないか?

 

宮崎駿on your markを前例に歌詞の内容を曲解することがあるので、そういうこともあるかな?