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國分功一郎著・暇と退屈の倫理学の批判的解体

私は普段あまり哲学といったものには全く馴染みがなく素人知識しかないが、今回取り上げる暇と退屈の倫理学という哲学の本はやさしい文体で書かれつつも、哲学の名著などを多数引用しつつ、この暇と退屈というテーマを論じるという、哲学の入門としても解りやすく、尚且つ内容も歯ごたえがあり、素人感覚でも非常に面白い本だった。今回はあえてハイデッガーについての一部の解釈と本書の一つの結論に疑問が湧き、納得いかなかった箇所を批判的に論じてみてはいるが、何度も言うように哲学に関しては全くの素人であるため、その専門知識の疎さと読解力の欠如による的外れな指摘であるかもしれない。本書で哲学の名著などを引用し批判的に論理展開しているのなんかを参考にそれを実践する形で書いていきたいと思う。

まずはこの本の要約から始めたい。

冒頭は西田正規著、定住革命を参考に人の退屈の起源について語られる。人類はその歴史の大半の間遊動生活を行っていたが、気候変動などの理由によって定住を「強いられる」ことになり、結果遊動生活で得られていた人類の優れた探索能力の発揮は有り余ることとなった(=退屈)。そしてその探索能力は定住がはじまって一万年で一気に遂げた文明発達に生かされたというものである。

そして次に、暇と退屈の定義が分けられる。

暇の定義としては、暇とは何もする必要のない時間自体の客観的条件に関わり、退屈とは人の感情、気分であり主観的な状態と定義される。その上でハイデッガー著「形而上学の根本諸概念」から退屈について論じられる。そこで退屈は段階分けされ、まず退屈の第一形式として、なにかによって退屈されること、具体的には電車の到着を待っているとき、木の数を数えたり、地面に絵をかいたり、現代的に言えばiPhoneでツイッターを見たりして気晴らしを求めるが、その時人は電車が来ず待つことによって時間に引き止められるという退屈状態にあると述べられる。そしてその時人は自己を失っている空虚放置という状態にあるという。続いて退屈の第二形式をハイデッガーは「何かに際して退屈すること」と述べ、その具体例がおそらくハイデッガーの実体験のようなものから語られる。それによれば「人はパーティーに参加する。食事は美味しくいい音楽も流れ、談笑も弾む。しかしこのパーティーが終わった後、このパーティーに際して、ふと退屈していたのだと気づく」とある。これはあまりピンとこないという人もいるだろうが、私のように引きこもり気質のある人なら良く分かる感覚ではないだろうか。この感覚を文章化できるこのハイデッガーとかいう哲人も恐らく相当な引きこもり気質だったのだろう。(この第二形式の退屈自体は個人差こそあれ万人共通のものである)つまり、この時人はパーティーに際して付和雷同的であり、自分の中に空虚が育成されてくるために退屈に陥ったのだと述べられる。そして最後に退屈の第三形式として挙げられるのが「なんとなく退屈だ」というありふれた漠然なもので、ハイデッガーはこれをすべてに興味を失っている状態「余すことなき全くの広域」と表現し、この時人は退屈に耳を傾けることを強制され全面的な空虚の中にいる状態であるという。しかしここでハイデッガーはこの第三形式の退屈にこそ、ゼロの状態であるからこそゼロを突破する可能性があると述べている。つまり、空虚に置かれることで人は現存在(ハイデッガーがよく使う表現で自己の意)の先端と向き合っているということである。そしてそこからハイデッガーはこの可能性を実現するには「決断することだ」と本書で引用されている文の限りでは抽象的すぎて何を言っているんだかよくわからない結論付けをしたのである。その結論に対してこの著者の解釈は批判的に論理展開をして、退屈の第三形式から可能性を選び抜き決断することは決断の奴隷になり第一形式の退屈に戻るだけのことであると論じている。

そして、最終的に我々は教養を身に着けることで楽しむことの訓練を行い退屈の第二形式を生きるべきだと結論を出す。退屈の第二形式であるパーティーを楽しめなかったのはパーティーに際して食事や音楽を楽しむ訓練を行っていなかったからだと述べ、ようは著者は食事や音楽に関してハイデッガーは教養がないとかいう酷い勝手な決めつけをしたのである。

しかし果たしてハイデッガーの言う自分の可能性と向き合い決断するとはそういうことなのだろうか?

退屈の三形式には共通しているものがあった。空虚放置という状態である。この空虚放置を簡単な言葉で言い換え、自己喪失という意味で考えると、第一形式の退屈では電車が来ないことで自分のやりたい行動ができず、自己喪失から退屈に陥っていた。そして先ほどの定住革命の説から考えると、絵を描いたり、木の数を数えたり、iPhoneでツイートをするのは有り余る自己の能力の探索や自己表現をして一時的に自己喪失を解消しているのだと考えられ、そしてこれらは定住革命の構図とも一致するのだ。つまり人は自己喪失(=空虚放置)という退屈を紛らわせるために自己表現のような形の自分の能力の発揮を行っているのではないだろうか。著者は退屈の第二形式においてハイデッガーがパーティーを楽しめなかったのは楽しむ訓練をしていなかったからだとかいう勝手な決めつけを展開したが、ハイデッガーはしっかり文章中にパーティーの退屈について周囲に付和雷同的で自分の中に空虚が育成される、つまり周囲の人間に気を使い本来の自分を抑制している状態の中で退屈を感じたと説明していた。ここから私の反論として、人は訓練によって第二形式の退屈を楽しむしかないというのは間違いで、パーティーを楽しむという観点で言えば、気を使い自己喪失に陥るパーティーに参加するのではなく、気を使ったり自己抑制をする必要のない仲間と飲みに行ってその談笑の中で気兼ねなく自己表現を行うことで退屈から逃れることこそ人のあるべき状態ではないだろうか。いくら教養があったところでそれを披露共有できなければ空虚は肥えていくばかりになってしまうだろう。そしてこれはハイデッガーの結論「決断することだ」にこそ日々の退屈から逃れられる答えを教えてくれているのではないだろうか。著者はなぜか揚げ足取り的に空虚の中で自分の可能性と向き合い決断することを第一形式の退屈へ戻り日々の奴隷となることだと結論付けたが、ここまでの解釈と照らし合わせれば、空虚の中で自分の可能性と向き合い決断することということの意味は明白である。この向き合う自分の可能性とは文字通りの意味であり、ハイデッガーの述べる決断とは決断の奴隷になるようなことではなく、自分の可能性に基づいた自己を発揮できる仕事や友人や趣味を発見しそれらとともに生きろというような単純なことなのではないだろうか。